NPO法人アクト世田谷たすけあいワーカーズゆりの木

寄稿-山の記録

ケアーの現場から

山の記録

石田建三 様

初めて登った山と言われて、1978年以降の日誌を辿って見た。

一月元日だった。

丹沢山系大山<阿夫利神社>参拝したとある。まだ現役の62歳。その夏から秋にかけて処構わず、丹沢山塔の岳(1430メートル)360度の展望を望む有名な山は、必ずや登山者がいると言われているので安心して登ることが出来た。

1980年8月(64歳)は尾瀬至仏山(2228メートル)に登る。山頂から尾根ヶ原前方にそびえる遂ヶ岳、明日はあの木道を縦走する事になると思いながら踏み荒らされた下山道、高山植物も押し潰されていた。山の鼻の小屋に着く、翌日は早出のため弁当がない。早朝より、木道を歩くハイカ-達、挨拶を交わすのは山の常識、のんびりと歩くわけには行かず急ぎ足、エリアマップを見ながら最後の小屋で草もち3個買い、昼食にした。大清水のバス停には12時、13時発のバスで帰京する事に間に合った。

翌年の1981年8月(65歳)北アルプス白馬大雪渓に登ることにした。終点のバス停から1時間ほど歩いて白馬尻宿舎に入る。その日の明るい中に一寸雪渓を見に行き、見知らぬ人に写真を撮ってもらう。

翌日は、初めてアイゼンをつけ大雪渓登山者の列の中で(ガイドブックは初心者向けといわれているが私にはそうとは思わない)私は疲れていた。時々休憩をしながら午後2時ごろ頂上小屋へ着く。立派なレストランを思わせる宿舎であった。ここは大勢の登山家で一杯という状態だった。

翌日は白馬岳山頂に立ち2933メートルからの展望は見事な感銘を受ける。白馬岳を後に白馬大池の宿へ、下りといえども山は山、長い下りの後早めに宿に着く。翌日はアイゼン着用の小雪渓を大石の積み重なった道をのり越えて木々の緑の中を下がっていけば栂池自然に出た。これで白馬岳登山は終了。あとはバスを待つだけだった。

山の記録

翌年の8月(66歳)。後立山唐松岳へ登ることにした。

ケーブルとリフトに乗り換え八方尾根・八方宿舎に入る。翌日は暗い中に宿を出て八方尾根から日の出を拝むつもりで早出したがあいにく、雲の中、エリアマップを見ながら八方尾根を奥へ向かった。

1984年10月(69歳)。単身、南八ヶ岳の主峰---赤岳に。

エリアマップを頼りに美濃戸口から柳川南側を行者小屋へ。

翌朝はなるべく尾根に近いルートを探し小屋近くの山路を登ることにした。早朝の霧が降りて冷たい山路にはファイト、ファイトと書かれた木札がいくつも目に着いた。途中路を間違えたが、危険な箇所から脱出、正規ルートに戻り鉄ハシゴを登る。

ようやく最短の尾根上に出る。それだけに赤岳頂上は遠かった。

初めて八ヶ岳の最高峰赤岳2899メートルの展望を楽しむ事が出来た。

遅くならない内にと近くの下山道ロープを頼りにすべるように降りていった。先客の二人のおばさんの後をロープに頼って無事下山。昨夜の宿でラーメン一杯を昼食に,すぐに先の二人のおばさんの後を追うも、おばさんの方が足が速かった。しばらく歩いて柳川の岸から二人のおばさんが出てきた。「お休みなさい」と云われ、林檎を半分程頂き一休み。後は美濃戸口の宿で休憩していたら3名の若い学生さんが、駅まで乗って行きなさいと車に案内された。途中図書館に寄るといって下車したが、その内にタバコ3個をお礼に渡すつもりで買った。中央線の駅まで行くつもりだった。バスも通っていたが待ち時間もあり、学生さんらしい若者に、駅まで送ってもらった。お礼を言ってタバコを渡し、別れた。親切なおばさん、親切な男の方に感謝し無事に帰宅した。

1985年8月(69歳)。穂高岳連峯涸沢カールまで行き、北穂高岳へ向かったが登頂あきらめ反転上高地へ出る。

1986年夏(70歳)。率山連峰縦走。

大糸線大町からバス、電車を乗り継ぎ立山室堂ターミナルへ。

残雪の山道を、今日の夜の宿舎、一の越に泊まる。

翌日は早朝まだ暗い中に宿の前から登りはじめる。懐中電灯を持った登山者はジグザグの道を上る灯りの列見ながら、後ろに続く雄山、山に着いた頃は明るく、大勢の登山者が頂上神社に参拝していた。私は雄山神社に参拝、お札と2色の大きい鈴を戴き持ち帰る。

大勢の参拝客も先へ縦走する様子はない。私は単独の身、神社と別れて大汝山(3015メートル)強風のため大汝山の大石の裏側で休憩し、立山連峰の尾根道から望む室堂ターミナルビルやみどりが池の青さを見ながら富士の折立~真砂岳(残雪有)をとおって、身近に有名な剣岳を望む事が出来た。昼も近く登り始めて6時間近くなった。剣御前小屋で昼食、雷鳥沢を下って室堂ターミナルに着く。バス、電車に乗り換え宇奈月温泉へ遅くなって着く。宿に相談をしたところ、今お祭りの最中一人泊まりの部屋はないから、近くのお寺を紹介してくれた。その夜はお寺の本堂の片隅で一夜を明かしたが、温泉入浴券を渡され入浴は出来た。これでも楽しい山行きであり旅行と思いながら帰宅した。

1986年10月9日(71歳)。単独鳳凰三山の縦走に出る。

夜又神峠の小屋で一泊・二泊目は南アルプス三山を望む。日本庭園を思わせる砂払いに出る。薬師小屋に一泊した。翌朝は驚いた事に一面雪に覆われ縦走をあきらめ、急ぎ青木銅泉へ着く。この縦走は失敗に終わった。

その後の主たる山歩きは1人、二泊三日で、石川県白山、標高2700メートル又木曽御岳山3067メートル頂上小屋で泊まるも、殆どの宿泊者が白装束で信者の宿になっていた。又遠く鳥取県の大山1800メートル又四国の石館山2000メートルなどその他の南アルプス北岳3200メートルや仙丈が岳3033メートル北アルプスに表銀座入口、燕岳や大天井などは、常に4-5名で行動した者で、良きリーダーに恵まれ楽しい山歩きが出来た。

1987年9月23日(71歳)。リーダーを先頭に南入ヶ岳(二泊三日)縦走。

美濃戸口から柳川南沢を今夜の宿行者小屋へ向かう。

翌日は阿弥陀岳へ道を間違え一寸手間取る。阿弥陀登り口に不要のザックを置いて急な岩峯に一歩一歩登る。下山が大変。

登りの方が楽だった。全員無事で山主峯赤岳に向かうに阿弥陀のコル~中岳を越え主峯の荒々しい岩の間を抜け頂上へ出る。

頂上では素晴らしい展望を楽しむ。何年か前に登った時とは。

事情が変って、赤岳山麓が新しくなっていたので展望を楽しみ、その後横岳に向かう途中石室小屋で休憩した。横岳は危険な個所が多く、クサリ場もあって、難所の連続だった。時間をかけて横岳ダルミをへて広々とした平坦地も後をのぞけば大火口の跡が口をあけていた。今回の縦走も終り、二時間程で本沢温泉へ、今夜の宿に着く。翌朝は昨夜の雨も上がり、緑の滴る森の道を車は小海線松本駅へ、八ヶ岳縦走もこれで終了です。

1992年8月6日~9日(76歳)。南アルプス塩見岳(3040メートル)。

塩見岳~仙塩尾根、熊野平小屋を至て三峰岳から間の岳から北岳~広河原の予定。

塩川土場の登山口まで今日一日、土場の小屋に泊まり、中村リーダーと元気の良い酒井、小林と私の4名、リーダーの行く所必ず同行する私、リーダーとは特に親密な山の仲間だ。

翌朝出発間際になって、昼食のご飯を忘れ急に握り飯を作る。

今日の行程約10時間、途中の小屋三伏峠で休息、次のお花畑で昼食、順調に歩いた。一日約10時間歩いて午後の4時、塩見小屋に着く、大勢の登山客で4時では遅かった。寝床は天井裏の片隅を与えられた。文句は言えない。4時ごろでは明るい。塩見岳の目の前にはだかる何枚かの写真を撮っておく。翌朝。天候は晴れ。頂上に達するには、その前方に切り立った岩山の難所アリ、足の置き場ない所、時間をかけて登り切る。更に本峯の塩見岳の岩場の頂上に立つ、(3040メートル)西峰~東峰に移る。

遠く富士山を望む事が出来又仙塩尾根の漫歩を楽しみながら3000メートル級の山々も満喫できた。又お花畑も見たが良い事ばかりではなかった。天候が悪くなってきた。歩き出して6-7時間アット言う間に雨が本降りになった。素早く雨具を着て急ぎ、熊の平小屋を目指し急いだ。2時間位雨に打たれて着く、びっしょりと濡れた雨具は決められたとこへ吊り下げておく。雨は一段と激しくなってきた。(この小屋では外人の奥さんがパンを焼いて食べさせてくれると言う話に人気のある小屋と言う)

リーダー中村氏の身内に不幸があり、どうしても明日は下山したければならない事情が生じた。雨は一層激しくなってきた。

台風10号ということだった。中村リーダーは自分だけ下山すると言ったが、1人だけ下山させる事は出来ない。4名一緒に下山すべきと決まった。(この場合は仕方がない)早朝、4名は雨風激しい中を出発した。横殴りの雨は頬を叩く風で体がふらつく、風雨の中、2時間余りかけて三峯岳(2993メートル)に、雨嵐の中一枚の写真を撮っておいた。ここから下山、南アルプス、スーパー林道にでる予定。下山口は森林の中、風雨は少し和らいだと思った。握り飯をたべる。直ちに下る林道までまだ時はかかる。あれから2時間位かかったあと、1時間で林道に出たときは、雨が止んでいたように思う。足の速い酒井はバスの時刻を見ると言って、どんどん先に行ってしまった。最後から来る小林に中村が付き添って歩いてくる。その前に私も急ぎ足で広河原へ向かった。これは容易なことではない。小林は呼吸困難だと思うと先にいくことが出来ない。絶えず後方を見ながら歩いた。

何時間歩いたか知らないが。この林道を後ろから白い車が来て、私の前方に止まった。続いて白いセダンが来て先の車の人と話をしていた。私が歩いて車の片側を通る時に、白いセダンの運転手が【貴方は足が悪そうだ。この車に乗る様に】いわれて驚くと共に内心嬉しかった。しかし、小林と中村リーダーを後に残していくのも気が引けたが、ありがたく車に乗せてもらった。

先に歩いていく酒井も同僚と言って同乗、広河原まで乗せてもらい、酒井と相談してタバコ代として5000円をお礼に渡した。

酒井は、中村と小林を迎えに行く。広河原の宿の主と相談して迎えに行ったと聞く。汗で汚れた衣服は大きな石の上で着替えをして、中村の帰りをまった。宿の主には5万払った。無事にそれぞれ帰宅した。この三山縦走も後味の悪い結果で終りとなった。

1995年8月8日~10日(80歳)。

甲斐駒ケ岳のリーダーとの二人旅、天候は晴れ。北沢峠から仙水峠へ歩き難しい路だった。一時間以上かかっただろう、一息休息,仙水峠から見上げる駒ケ岳とそびえる摩利支天、今日はあそこまで上るんだと、自分に言い聞かせ、急坂も急坂の道なき道、立ち木に捕まり、一歩一歩上がっては、振り返ると仙水峠の山々より高みの見物とずいぶん高く上ったと思った。まもなくして、駒津峰(2753メートル)広々とした休憩場所、大きく見えてきた駒ケ岳、反対側には以前に上った仙丈が岳(3038メートル)が手に取るように見える。(一般のツアー登山の場合は、この駒津峰から展望で仙水峠へ下るそうです)一休みした後は駒ヶ岳へ向かう途中大きな岩が3-4個重なるように路を閉ざす。大岩を迂回して直登は出来ない。右回り摩利支天側から登りはじめるも、石砂歩き難しい上りだったがお昼過ぎに頂上に立つことが出来た。

高い山は危険も多いが、楽しみも又多くあると感じた。登山者のおばさんとその他数名を見た。リーダーは一足遅れて頂上へ。写真をとった後弁当を広げる。長く休んでいられない摩利支天側を下山する駒津峰に不用の物を置き登ったので、再び荷物をまとめて下る事にした(後で考えれば、今来た仙水峠へ下れば苦労はなかった。後の祭りだ)。相談の末、いまだ登ったことのない双児山を廻って下山する事にしたが3時に下山をはじめたが、5時になっても北沢小屋が見えない。山の中は5時といっても薄暗い、心細くなってきた。リーダーは足が遅い。6時になって、すっかり暗くなった。水は無し、懐中電灯をたよりにリーダーを後にして急ぎ下山。7時頃に北沢山荘の灯りが見えてホッとした。

早速、宿の主人に水と灯りを持って年寄りを迎いに行って貰いたいと頼んだところ(今時分来ることが馬鹿と言われても仕方ない)三拝九拝の末、若者が水と灯りを持って迎えに行ってくれた。それから30分程でリーダーは宿の若者と一緒に帰ってきたので、ヤレヤレ安心、安堵の胸をなで下ろした。二人は顔をあわせてニッコリ一件落着となる。夕食後、宿賃・食事にお礼の気持ちを出したが、お礼の分は受け取ってくれなった。翌朝は再度お礼を言って、宿を出た。(甲斐駒ケ岳登山は終り)

1999年7月31日~2泊3日(84歳)。「嘘から出た誠」。

鳳凰三山縦走の思い出。

7月31日甲府~車で夜又神﨑へ入る。 足の遅い新人が気になった。 入山して三時間程で昼になる。 7月と言うと山の中は薄暗い、 リーダーが予定した南竹室小屋は水も豊富、条件はよいが明日の行動を考えると、今日の内に、薬師小屋まで行けば、明日が楽だと、大丈夫とリーダーの声に御室山へ、早めに縦走路砂払い~薬師岳へ上る。新人は行程を知らない。朝食後、縦走路の尾根に登ったのは、8時頃、砂払いから見る雲海と富士山薬師ヶ岳まで登れば白峰三山を望む事が出来た。日本庭園を思わせる縦走路で時々足を止めて休息、景観に足を摂られて休憩が多く、昼食の時刻を過ぎているのに、まだ縦走路だ。駒ケ岳の遠望、オベリスクもまだ遠い。午後昼過ぎて、白砂の下山道地原岳オベリスクは霧の中、やっと着いたのが午後の2時、鳳凰小屋で昼食、私は早く出発しなければ暗くなる。急ぐよう催促するも、新人同行では不慣れの細い山路、遅遅として進まない。山路は暗くなってきた。私が先頭にたって、懐中電灯を前後に振りながら先導するも、夜の時間が過ぎるばかり、幸いリーダーの息子が携帯電話で宿へ遅くなることを電話した。時刻が9時・10時と時を刻むも足の方は進まず。尚、新人は、ストックを谷間に落としたと云う。

更に歩けない、私のストックを貸してやる、10時・11時と先頭になって先導する。11時を過ぎた頃、前方ライトをかざして迎えの合図をしてきた。宿の若い衆が、迎えに来た。新人のザックを持ち、先導してくれた。再びライトをかざして迎えに来てくれた。

安心して胸をなでおろし、宿の若衆はリーダーのリック、私のリックも持ってくれた。肩が楽になった。暫く歩いて、広い河原に出た。そこには、軽トラが待っていた。皆は無言のまま、軽トラに乗り、車は宿に向かって走った。リーダーも計算違いをした。もっと近いと思ったと、私に話しをしてくれた。無事宿に入るも、宿の女将さんも出迎えてくれて恐縮した。入浴、食事してリーダーと二人は床に就いたが、新人と息子は午前3時まで飲み明かしていたと言っていた。翌朝、新人に顔を合わせたら、ニッコリと笑みを浮かべていた。後で今日の事は絶対内緒とお互いに約束したが、この後、残念ながら名リーダーの逝去によって息子から公表した。


確かなリーダーでも1人新人が加われば、新人の歩調に合す事になる。長年の登山にも大きな落とし穴と言っても良い。

99年7月末の鳳凰三山縦走も1人の新人が同行した為、大きな誤算が出た。私は以前一人旅のとき降雪に見舞われた時、登山者の皆さんと共に、急ぎ下山した経験がありましたので・・・。

当日の時刻も計算すれば遅くなるので、再三急いで下山する様催促したが、山道では足が進まず、私が先頭に立って急ぐも後が続かず、夜中の9時・10時になっても宿の明かりも見えず。11時・12時近くになって前方から迎えが来た。合図の電灯を回して、迎えに来た。安堵で胸をなで下ろしました。